松川行雄の『桃源坊』blog

【毎日更新 桃源坊】エッセイ配信中!#政治経済#歴史#文化#評論#オカルト#小説など、内容盛りだくさんです。経験や知識を後世に残せれば・・・楽しみましょう。はい。

人は他人に、いったい何ができるのか

note.mu

人はなんのために生きるのでしょう。自分のため。これは当たり前です。議論にもならない。問題は、自分以外の人のためのときです。古くて新しい、矛盾です。

:::

西洋のキリスト教と東洋の論語(孔子儒教)とでは、人間の姿勢について、ずいぶんとアプローチが違う。どちらが良いとか優れているとかいうのではない。どこに重点を置いているか、ということにほかならない。

聖書では、あまりにも有名な「人はパンのみに生きるにあらず」とある。その崇高な理想主義的なたたずまいは、孤高といえども気高さを覚える。論語では、「衣食足りて、礼節を知る」とある。人間のともすると陥る弱点を、見事に衝いて余りある。

仕事というものは、人のためであるとはいえ、結局自分のために行なっている。あるいは家族のためであるかもしれない。聖書の言葉と論語の言葉は、いずれも重さは同じなのだが、そのバランスは難しい。

いったい、自分や家族以外の人間のために、徹頭徹尾生きることができる仕事があるのだろうか。あるとすれば、それは宗教家しかないのではないか。それも、道をはずせばえらいことだが。

かつて若い頃、まだ自分が青かった時代に、キリスト教徒になろうとしてのめり込んだことがある。結果的に転んでしまった経緯があるのだが、その頃読んだものの中で、当時も、そして未だに解けない問いがある。

問いそのものは分かりやすいながら、答えは果たしてそれで良いのか、と考えさせられたのは、遠藤周作の『沈黙』だった。外国人宣教師が、日本のキリスト教禁令のかどで捕縛される。彼は、殉教を覚悟しているわけだが、牢屋の中の騒ぎ声が止むことなく、牢番にクレームをつける。

『私が磔(はりつけ)にされる前に、心静かに祈ろうというときに、あの騒ぎ声はなんだ。邪魔だから、やめさせろ』、と。

牢番は皮肉たっぷりに言う。『何を言ってるんだ。あれはお前が棄教しないから、お前の信徒たちが拷問され、殺されていっている悲鳴だ』。

宣教師は、目が覚めた気がしたのだろう。何も言わなくなった。そして、命拾いができる最後のチャンス、踏み絵の場面を迎える。だが、踏めない。なかなか踏めない。信仰と、自身の名誉を裏切ることはできない。

そのとき、誰かが耳元でささやいた。誰もいない。その声は、「私を踏みなさい。それでみんなが救われる」。彼は、踏んだ。

もう原文を見なくなってから、30年以上は経っているので正確ではないだろうが、おおむねそんなクライマックスである。宣教師は、自分が一番大切にしているものを捨てて、自分を信じる人たちを救おうとしたのだ。それが、果たして結果的に、救われた人たちにとって良かったことなのか、どうなのかは、誰にも分からない。ここに、その難しい問いが隠されている。

ついで、といっては何だがもう一つ紹介しておこう。明治・大正期の詩人、山村暮鳥(やまむら ぼちょう)の一編だ。短いものなので、敢えて全文掲載する。旧仮名づかいは、便宜的に現代のものに置き換えたので御容赦。暮鳥にも申し訳ないが、敢えて読みやすいように、そうさせていただく。オリジナルを読みたい方は、原文をご覧いただきたい。暮鳥は、ちなみに牧師であった。

キリストに与える詩

キリストよ
こんなことはあえて珍しくもないのだが
今日も年若な夫人が私のところに来た
そしてどうしたら
聖書の中に書いてあるあの罪深い女のように
泥まみれな御足を涙で洗って
黒い房々したこの髪の毛で
それを拭いてあげるようなことができるかとたずねるのだ
私はちょっと困ったが
こう言った
一人が苦しめばそれでいいのだ
それでみんな救われるのだと
婦人は私のこの言葉に喜ばされていそいそと帰った
婦人は大きなお腹をしていた
それで独り身だと言っていた
キリストよ
それでよかったか
何だかおそろしいような気がしてならない
(山村暮鳥、詩集『風は草木にささやいた』より)

実用と美~実用に耐えぬものは、美しくない

note.mu

近年なんでも「癒し」である。この言葉もわたしは嫌いなのだ。なんでも「癒し」のために、材料に供されてしまう。音楽や、マッサージなら、そのものだから良い。犬や猫などのペットも、迷惑だろう。向こうはわたしたちを癒しているつもりなど、さらさらない。人間が勝手に「癒し」を求めて、「愛玩」しているにすぎない。向こうは、徹頭徹尾、生きるのに必死だ。

観光や物見遊山もいいだろう。だが、歴史的文化財、とくに寺社や城などになってくると、わたしなどは抵抗を感じてしまう。

美しいという言葉は、とても曖昧に使われる。実用の美と芸術の美が一緒くたになっているということだ。芸術といったら、ちょっといささか格好つけすぎかもしれない。「見かけの美しさ」とでも言ったほうが正しい。

たとえば、百歩譲って城とか民家など、古い文化財を観覧するという際に問題がでてくる。とりわけ、寺や神社の場合は、いわゆる物見遊山では困るのだ。

いいじゃないか、そう堅いことをいわなくても、というわけにはいかない。本人のためにも良くない。正しい美意識が育たないのだ。見かけの「閑静なたたずまい」はそれ自体、心地よく鑑賞して構わないのだが、それで終わってもらっては困るのだ。寺社までわざわざ足を運んだ意味がない。

先日亡くなった生態・民族学者・梅棹忠夫が、「文明の生態史観」の中で、こうのべている。

・・・これは寺である。寺は宗教にかかわるものであって、芸術作品ではない。われわれは宗教的体験の場としての寺を、美的標準からのみ評価するというあやまちをおかしている。・・・わたしたち日本人は、なんでもかんでも美の尺度ではかろうとしているのではないだろうか。・・・

この梅棹忠夫の懸念は、実用(寺の場合は、祈りという宗教的な場である)としての寺の美しさを観取することもできず、曖昧な美的感覚に漂うだけで、ロジックというものの発達も損なわれる。

現代、「癒し」という言葉の氾濫に見られるように、すべては自分の快感のための材料を求めているだけであり、それ自体の実用的な美というものへの知的好奇心は皆無な精神風土が蔓延しているのだ。

寺のような文化財の観光名所だけではない。骨董品もそうだが、皿や碗、壷などの小物にも言える。奇しくも、梅棹と同じことを言っている巨匠がいる。

柳宗悦は、その「民芸四十年」の中でこう書いている。

・・・偉大な古作品は、一つとして鑑賞品ではなく、実用品であったということを胸に銘記する必要がある。いたずらに器の美のために作るなら、用にも堪えず、美にも耐えぬ。・・・

そうなのだ。優れて実用的なものは、まず間違いなく美しい。しかし、美しいものが必ずしも実用に耐えるとは限らない。そして、それが果たして本当の意味で美しいかすら、疑問だ。

ついついわたしたち日本人は、美しいかどうかで感覚も思考も止まってしまい、それが正しいのか、間違っているのかとかにまで思考が進まない嫌いがある。美しいことで、免罪符にしてしまっている癖があるようだ。

熊野古道のようなものが世界文化遺産に登録となったことは良いことなのだが、しかしそもそもが観光地ではない。本来の姿、かつてそこにあったもののほうが、遥かにわたしたちには財産なのだ。

熊野古道は登山やハイキングコースではない。大峯奥駆け(おおみねおくがけ)という、修験者たちがそれこそ1000年にわたって登攀し続けてきた霊場にほかならない。多くの行者が命を落とした場所なのだ。深山のヒーリングや、都会の喧騒から逃れた「癒し」の場ではないのだ。

熊野古道世界遺産としての価値や意義は、風光明媚な自然などではない、と思っている。命を懸けた「大峯七十五靡(おおみねななじゅうごなびき)」という、修行の場だったことだ。

祈りとはなにか、行(修行のこと)とは何か、ということを考えずに、寺も神社もくそもない。信仰の有無や宗派の別は、まったくここでは問わない。だから、古刹(こさつ)を観光巡りをして、古色蒼然とした風情に美しいと思うことは構わないのだが、その寺ができたときには、黄金と原色に満ちていたのだ。その事実と、ただ、古くなった風情との整合性をどうつけるつもりだろうか。

もっとわかりやすく書こう。あなたが今見ている寺は、観光スポットと化し、葬式宗教に堕したただの、言わば宗教的には死んだ寺である。あなたが想像もしたことがないような絢爛豪華な色彩で埋め尽くされていた、創建当時のその寺の、強い使命感や情熱と深い信仰に満ち満ちていた当時の寺の風情ではないのだ。

いま、わたしたちが美しいと思う枯山水のような「出がらし」の寺の風情がその寺の真実なら、1000年前のこの世に生まれたばかりの、溌剌とした文化の発信地としての燦然と輝く色彩感覚の寺も真実なのである。

金箔が剥げ、絢爛豪華な色彩も褪せて、枯れた侘(わ)び寂(さ)びの風情も、その永遠に受け継がれてきた気の遠くなるような迫力に美しさがあるのだ。両者の気の遠くなるような時間の経過の中に、歴史の移り変わりがあり、それでも絶やさず点(とも)され続けてきた「千年の法灯」の感動があるのだ。

俳句は本当に終わってしまったのか?

note.mu

昔から、古文は嫌いだった。苦手だったのだ。にもかかわらず、あるきっかけで軍記物だけは読むようになった。どこまで正確に読めていたか、はなはだ疑問だけれども、精神の昂揚と、果てしない哀感を覚えつつ読みふけった時期がある。平治物語保元物語太平記など、何度も読み返したものだ。欠字に悩まされながら、将門記まで読み解いた(これは漢文である)。

そうしたきっかけをつくってくれたのは、小林秀雄の『考へるヒント』だった。父親の書棚にあったのを盗み読んだのだ。その中に、芭蕉のことを書いた下りがある。孤独、孤高、いずれにしろ一人で立つ者の話だ。

芭蕉は、平家物語の中で、とりわけ木曾義仲が好きだったという。源頼朝にしろ、平家の一門にしろ、登場人物はみな血縁者や譜代の家来に恵まれていた中で、義仲だけは最初から最後までたった一人だった。勝てば加勢が雪だるまのように増え、負ければあっという間に離反する。平氏と源氏のいずれも敵に回してしまい、まったくの孤立無援に陥る。結局は、たった一人であったことを思い知らされる義仲の人生。

実際、私自身、平家物語を読んでも、平家の滅亡に心の痛みを覚えたことはほとんどない。義経の最期に同情を覚えたことも少ない。どの人物に対してもそこまでの共感というものを覚えた記憶はない。しかし、不思議なことに義仲だけは、たしかに心にいつまでも残ったのだった。

芭蕉は、とくに義仲の哀しさを尊んだと小林秀雄は言う。実際、彼は琵琶湖の畔にある義仲の墓のそばに埋葬されることを望み、その願いは叶えられた。

『木曽殿と 背中合わせの 寒さかな』

小林秀雄は、この有名な句を芭蕉が読んだもの、としているが、どうやらそれは間違いで、芭蕉の門人であった島崎又玄(ゆうげん)のものだそうだ。自身の存命中に詠まれたこの句を、おそらく義仲贔屓(びいき)の芭蕉は絶賛したことだろう。

本当の孤独。歓喜も悲哀もあったろう。頼るものは自分一人でしかなかった男が、それでも後顧(こうこ)の憂いなく爽やかに、あくまでたった一人で走り切った人生。芭蕉がそれにどれだけ思いを寄せていたか、この又玄の句からしみじみと伝わってくるようだ。平家物語の中で、芭蕉が一番その滅びの悲劇性を感じたのは、義仲であったに違いない。

平家物語は、「滅びの美学」と評される。昔からそれに同調できない自分がいた。しかし、小林秀雄芭蕉のおかげで、私なりに平家物語の読み方ができたのは幸いだった。滅びそのものより、孤高のほうがしっくりくる。

判官びいきも、忠臣蔵人気も、坂本龍馬好きも、私はどうにもしっくりこない。天邪鬼(あまのじゃく)だからだろうか。それとも、一般的に言われている日本人の好みというものが、間違って伝えられているのだろうか。

終戦直後、くだんの桑原武夫が、俳句をこっぴどくこきおろしたことがある。「第二芸術論」である。現代の生活においては、俳句はもはや人生を表現できない、としていわゆる芸術とは区別すべきだという主張だ。

桑原は、大家の句と素人の句を混在させ、作者名を伏せてしまったら、作品からは素人と大家の優劣がつかない、としている。

俳句において、大家の価値というものは、その党派性によって決定されていると批判。彼の表現を借りれば、「老人や病人の余技」に過ぎず、芸術とは呼べない。少なくとも、学校教育からは締めだすべきだ、というものであった。

当然のごとく、句界や一般の俳句趣味の人士からは、猛烈な反駁(はんばく)を浴びた。メディア上で、そもそも芸術とは何か、という議論に始まり、喧々諤々の様相を呈した。

私は現実を見る限り、桑原の意見に反論できない。だが、そこまで見切るべきでもなかろう、と思う。ただ、俳句にとどまらず、和歌にしろ、あるいは小説にしろ、戦後になってからは、その芸術性たるや、音を立てて崩れつつあるのは事実だろう。

思えば、俳句に関して言えば、おそらく日本人が成した到達限界点は、芭蕉に行き着くのではないだろうか。その奥深さ、情緒、品格、洞察、すべてにおいて完成度が高いのは、(句を嗜まない私が言うのもおこがましいが)芭蕉以外には考えられない。

もちろん、俳句に豊かな色彩感覚を与えた蕪村も、そして現代人にも近い、人間の悲哀を豊かに歌い上げた一茶も然り。江戸時代は、俳句の黄金期だったとも言える。以来、言葉は悪いが、亜流の時代がずっと長く続き、今やそのロウソクの火も消えようとしている。

個人的に、芭蕉の句で一番好きなものがある。

むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす
(芭蕉、『奥の細道』より)

俳句というものは、詠んでそのまま味わえるものもあるが、なにしろ17文字という極端に短い字数で表現するため、背景が分かったほうが遥かに味わい深くなるものも少なくない。この句も、その一つだ。

きりぎりすは、今で言うところのコオロギのことだ。すらっと詠んでしまうと、まるで武士の戦(いくさ)の後、荒廃した野辺に落ちている兜の情景が浮かぶ。コオロギがそれに押しつぶされているようにして、苦しげに鳴いている。そんな風に思えるかもしれない。

戦(いくさ)の後の哀感を謳いあげたもののように思える。「夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと」と同じような句と思う人も多いだろう。無理もない。ややこの句の背景を知らないと、意味がなかなか分かりにくいのだ。

これは、芭蕉が加賀の小松にある多太神社で詠んだものだ。斉藤別当実盛(さいとうべっとう さねもり)愛用の兜が祀られている。実盛は、武蔵野国長井庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠とした鎌倉武士だが、越前出身である。

話は複雑だが簡単に書くとこうなる。当時の埼玉は地政学的な緩衝地帯であったことから、地侍の実盛も生き残りのために主(あるじ)を転々としなければならない運命を辿る。もともと源平がまだ両立して覇権を争っていた時代、実盛は源善賢(みなもとの よしかた)に仕えていた。

ところが久寿2年( 1155年)、義賢が実の兄義朝(よしとも)に急襲され死ぬと、その実子・駒王(当時2歳)を命がけでかくまい、つてを頼って信濃(長野県)に送り届けた。この駒王こそが、後の旭将軍・源義仲(通称、木曽義仲)である。

その後、保元の乱平治の乱においては上洛し、義朝の下で奮戦。しかし、利あらず、義朝は敗れ、源氏は四分五裂となって壊滅状態に追い込まれた。実盛は、東国歴戦の武士として、戦後もそのまま安堵されて、平氏から重用されることとなる。

ところが後年、治承4年( 1180年)、義朝の子・源頼朝(よりとも)が起死回生の挙兵をした。しかし、実盛は平氏を見限ることなく、あくまで平氏方にとどまり、今度は源氏と闘う羽目になった。

運命のいたずらか、成人した木曽義仲がこんどは挙兵。頼朝に先んじて京都を目指し、地侍たちを糾合しながら、雪だるま状態で京都に攻め上ってきたのだ。実盛はなんと、平氏から義仲追討の命を受けることとなった。

実盛は、すでに72歳になっていた。出陣前からこれを最期と覚悟し、敵にあなどられまいと白髪を黒く染めたという。寿永2年( 1183年)、迫りくる義仲軍を迎え討つため北陸に進発するが、加賀・篠原の戦いで敗北。平氏方が総崩れとなる中、実盛は老齢の身を押して一歩も引かずに抵抗するも、ついに義仲配下の武将によって討ち取られた。

首実検の際には、義仲や側近たちはすぐにはその首が実盛本人とは分からなかったが、やがてその事実が判明する。首を洗わせたところ、みるみる白髪に変わったのだ。

義仲は、かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知り、人目もはばからずに号泣したという。このときの実盛の最期の様子は、平家物語の巻第七『実盛最期』として一章を成して描かれている。

時代はずっと下って、室町時代の応永21年( 1414年)、加賀で布教中の時宗の遊行(ゆぎょう)14世太空のもとに、実盛の亡霊が現れたという。太空は、結縁して卒塔婆を立て、その霊魂を慰めた。

以来、実盛の兜(義仲がかつて寄進したもの)を所蔵する小松市の多太神社で、時宗の上人(しょうにん=高僧への称号)の代替わりごとに回向が行なわれ、現在に至っている。世阿弥も、この話を聞き及び、謡曲『実盛』として作品化している。

義仲好きの芭蕉が、やはり義仲と縁の深い斉藤別当実盛の遺品を前にして詠んだ句が、くだんの「むざんやな」である。

謡曲『実盛』や『平家物語』には、義仲たちが実盛の首と分かったときに言った「むざんやな」だけでなく、「痛ましい」「不憫(ふびん)な」などという表現があり、芭蕉はこれをそのまま用いている。

この句は、だから数奇な運命、悲しい巡り合わせ、それに静かに引き受ける覚悟といったものを体現した実盛の一生に対する、心からの鎮魂の句である。兜を前に、往時に思いを馳せれば、実盛の生きざま、死にざまが彷彿としてくる。兜の下では、コオロギが悲しげに鳴いている。コオロギは、もしかしたら、実盛の霊魂かもしれない。

果たして、桑原が言ったように、俳句はもはや終わった芸術なのだろうか。とくに現代、小説にしろ、和歌にしろ、俳句、詩、あらゆる文字による芸術表現は、18~19世紀の黄金時代と比べ、まったく輝きを失っている。

音声と映像が、この数十年画期的に進歩し、別の表現形態が長足の発展を見せている。それに比して、もはや文学は、その役割を終えたのであろうか。心寂しい限りだ。

虫の声~外国人と日本人の違い


note.mu

気休めにお読みいただいて、「ほうっ」「へえ」「う~ん」といったような声が出そうなことを、ジャンルを問わず、掲載していこうと思います。日付が変わるころのひとときにでも、ちょっとした他愛のない気づきにでもなれば、大変うれしいです。さて、初回の今回は、虫の声って、外国人にはどんな風に聞こえるんだろうかというお話。

日本の株式市場では、圧倒的に外人投資家が幅を利かせている。このところ、個人投資家が奮闘しているが、総力戦ではとてもかなわない。国内機関投資家は、音無しの構えである。一体、外人はどのように日本を襲うのだろうか。PEG(Price Per Growth=成長率から割り出される投資指標)で銘柄を絞り込んで買うという説もある。景気循環の初動で大挙してやってくる、という説もある。いずれにせよ、彼らと日本人では、ものの考え方が違う。彼らがなにを考えて、どうしようとしているのか、なかなかわかりにくい。

ある大学で実験がなされた。大勢のアメリカ人と日本人に被験者になってもらい、脳波をチェックしたのだ。具体的にはこおろぎや鈴虫など虫の声を聞かせるのだが、そこで右脳と左脳とどちらが反応するか、という実験だ。周知の通り、日本人は虫の声を愛でる。アメリカ人は、たいてい雑音や騒音のようにしか聞こえないそうだ。ノイズ、でしかないのである。美しいとはとても思えないという。

右脳というのは、知覚・感性をつかさどる。左脳は、思考・論理をつかさどる。どういう結果が出たとお思いだろうか。おそらくこんな感じで想像する方が多いはずだ。日本人は右脳(感性)で聞き、アメリカ人は左脳(論理)で聞くと。ところが逆なのだ。日本人は左脳(論理)が反応しており、アメリカ人は右脳(感性)が反応している。驚きの結果だ。

この解釈を聞くと、ああなるほどと思われるかもしれない。日本人は、虫の
声を明らかに論理・思考で聞いているのだが、それはそこに「意味がある」と思って聞いているからだそうだ。一種の言葉のようなものだ、と聴いているのだ。だから、その意味はわからないけれども、喜びや、悲しみなど、さまざまな思いが、そこに込められていると思って聞く。

ところが、アメリカ人は虫の声に「意味がある」とは思っていない。感性で聞いているため、ただの「おと」の羅列にしか思えないのだ。長年日本に住んでいる外国人(それはイタリア人なのだが)、二十年もたって、ようやく虫の声が綺麗だな、と思えるようになったと言ったのをわたしも覚えている。それも、どうして日本人が虫の声を美しいと思えるのか、それがわかった後に、自分も同じように美しいと思えるようになったというのだ。

つまらない例だが、この違いは天と地ほどの差がある。だから、乱暴な話、外国人が日本株を買ってくるといったときも、わけがわからないからとりあえず、一番指標となるような大型の、代表銘柄ばかりをどっと買い込むのだろうか。日本の社会は大企業を頂上に、中小のおびただしい企業群がピラミッド型で存在しており、これが不況にあっても大きな緩衝材の役割を果たしている。多くの新技術も、そうした中小企業から湧き上がってくることが多い。外国人がもっと日本のことを理解したら、今とはまた違った買い方をするのではないだろうか、と思ってみたりもする。